スタディツアー2014・夏(桑村和孝)
2014年のスタディツアーは8月20日から25日に開催され、関西からと関東からの参加者、計7名の旅となりました。今回はその内容を淡々と事務的に報告する部分に多くを裂くことは控え、私自身の問題意識から何を伝えるべきなのか、何が知られないといけないのか、を吟味し、それらを発信したいと思います。
■何故このスタディツアーをするようになったのか
09年、FCSの原がフィリピンを訪問していた当時、大学院生であった僕は、とある先輩から誘われJAICAのあるセミナーに参加をし、そこでこの「世界」の様々な場所で起こっている「現実」の一角を知ることになります。(ある意味では、知ったつもりになったといった方がいいかもしれませんが)TV。学校の教科書で「難民問題」や、「貧困問題」といった四字熟語と、僅か数行の説明。そして1枚の写真でさっと済まされていた事。僕の記憶にとどまらなかったその「現実」。それらが実際の活きた体験とリアリティを持って僕に迫りました。日本を飛び出してこの目で、自分自身で確かめなければ。
その年の年末にタイに。また、不思議なタイミングで出会った原と、最初のセブ島へのスタディツアーに同行させてもらったのが2010年の春です。そこで、直接的に「衝撃」を受けることになります。それはかつて、自分が経験したことのないものであり、自らの「無知」を思い知る体験でした。
同時に、そういった「無知」、に至るに至った空気のように日本の教育の背後に存在する、「何か」に対する問題意識への芽生えでもありました。「現実」に直接、見て、触れる、までは何もわからない。このことの重要性と、その「現実」を知るチャンスをもっと、多くの人に。教育的側面から言うならば、貧困地域の「現実」を直接、その五感で「感じた」ことのない若い世代に提供させて頂きたい。そうでなければ、この日本に生きていて世界の現実に対して、「無知」なまま。また、「知っているつもり」、であるいは、なぜそんなこと「知る必要があるのか?」と、いった意識で生きていく国民に(少数派を除き)日本人はなってしまう。自分がかつてそうであり、今もまだ無知なままであるように。私達がこのスタディツアーを始めなければ、という思いに至らせる最初の動機は、それでした。
■今回のツアーのハイライト。
最も重要にしたことは、直接的に見て、「学ぶ」という作業です。現地のあるNPOのサポート、引率の基、事務所で基本的な説明を受けた後、セブ市街中心地から僅か、車で5分程に多くある墓地のコミュニティを訪問しました。(スラム墓地とも言えるかもしれません) ここに住む人たちは文字通り、共同墓地のそれぞれのお墓の中に住んでいます。お墓というと、日本では垂直に立った墓石を思い浮かべますが、こちらでは大別して2種類のお墓が存在します。一つはまるでコインロッカーのように棺が積み上げられてできているものです。一つの棺の掃除をすることで、一か月の管理費として50ペソ(日本円で100円程度)の収入を得るために、時期によっては子供たちがお墓の清掃をして仕事をしています。棺自体は、何年か置きに遺体の中身を交換されることになります。
もう一つは屋根のついたお墓です。小さな小屋のような建物の中に棺があります。言うならばそのお墓小屋の中で生活をしている人たちがいました。2年前、別の共同墓地コミュニティを訪問した際、お墓の家の中には入りませんでした。今回、我々も初めて、その家の中を見せて頂きました。一人の赤ん坊を持つ母親の女性が中にいる部屋の中を見せてもらいました。真ん中には棺がありました。母親の彼女は笑顔で「It’s empty(ご遺体は入っていないよ)」と言いました。(床には生活の雑貨が散らばっていましたが、迎えくれたその母親にとって、その場所は、僕らは認識するお墓ではなく、彼女にとっての「家」であること。がその彼女の笑顔からわかりました。)そして、その次にNPO団体のその墓地での取り組みの一つとしてのプリスクールに連れて行って頂きました。当然ながら、校舎があるわけではなく、お墓の小屋を代わりに使用していました。その中にまるで教室のようにアルファベットの練習表や小さな椅子が積み上げられていました。
スラム街に住む親の多くは、幼少の頃、学校教育を受けていません。また売春によって生計をたてる親の子供も多くいます。子供の頃に物乞いという仕事をしてきたのです。「教育を受けた経験」がありません。ですから親も含めての啓蒙の意味合いもあり、プリスクールの重要性があります。墓地のコミュニティやスモーキーマウンテン、スラム街で生まれ育った人の多くは住民登録されません。生まれはしたが、自分の住む国に、国民としてカウントされない。生まれ、そしてその存在を認められることなく、生涯を終え、亡くなる。棺の中身はやがて、変わっていく。誰も、その人がかつて存在していたのだ、ということさえわからないまま、消えていく命。参加者の学生の多くは、言葉を失います。それは我々、引率者も同じです。19歳、20歳という年齢で初めて、目にしたその現実は、どれほどの衝撃だったのでしょうか。参加者の中には医療系の学生が2名いました。大学の衛生学の授業で習った常識が全く通用しないその現実の生活の有り様を目の前にして、「医療」とは何なのか、考えざるを得なかった、という言葉が紡ぎ出されていました。
■何を持ってしてスタディツアーは成功した、と言えるのか
スタディツアーは何を持ってして成功した、と言えるのか。一つには、安全が守られ、何のトラブルもなく全てのプログラムを終えられた、ということは言わずもがな、そのプログラムを通して、参加者、引率者が共に苦しみ、葛藤し、感動し、生きた自らの内面からの「気づき」を得るということがあるのだと思います。しかし、上記の2つが達成されたならば、成功したと言えるのかといいうと、そうではありません。今から3年後、5年後、10年後に、ツアーを通して自らの心に蒔かれた「種」。それが、単純に「過去の記憶」になってしまっていたとしたら、ある意味でツアーは失敗です。
日本に帰った後、多くの私達にとっては「日本の与えられた領域で」いかに生きて行くのか、を考え、模索し実行に移して行く、というスタートライン、そのきっかけを与えるのがこのツアーの役割であると認識しています。この植えられた「種」に水をやり続け、成長させ、小さな具体的な行動に結びつけていけるか、どうか、は私達一人一人の側の「責任」だと思います。これは非常にある意味で、重たい責務であり、私達自身も目を背けたくなるような、高い要求であるかもしれません。しかし、この基準を外す事無く、敢えて参加者にもこの問いかけをチャレンジした形で今回のツアーを終えました。